目次
- 第1章 憲法って何?
- 第2章 天皇とはどんな存在?
- 第3章 「最低限度の生活」とはどんな生活?
- 第4章 憲法改正って何をどう変えるの?
- 第5章 もし国に「戦争に行け」と言われたら?
試し読み
第一章 憲法って何?
なぜ公文書を残すことが大切
さきほどの、内閣法制局が憲法の集団的自衛権を容認することになった経緯でもう一つ大きな問題があります。内閣法制局の中でどのような議論があったのかという議事録=公文書を残していなかったのです。内閣法制局が突然これまでの態度を変えて集団的自衛権を容認するに至った過程がどういうものだったのか。それが今となっては検証できないわけです。
このような公文書の管理の問題はずっと続いています。森友学園への国有地払い下げ問題、加計学園の獣医学部新設に関わる問題、自衛隊の海外派遣時の日報問題と、公文書の管理にまつわる問題がとても多くなっています。これが「どうしてこんなに大きなニュースになるんだ」と思っている人がいるかもしれません。しかし、これは民主主義の根幹に関わってくる問題なのです。つまり、公務員が何かをした。どんなことをしたのか。果たしてそれは法律に基づいているのかどうなのか。後からいつでも私たちが検証できる公文書を残しておく仕組みになっていなくてはならないからです。
たとえば、自衛隊が南スーダンに派遣された。あるいはイラクに派遣された。そのとき自衛隊がどんな活動をして、周辺でどのような戦闘行為があったのか。自衛隊員はどういう活動をしていたのか。全員無事に帰ってきたけれど、本当は命の危険があったのではないか。記録をきちんと残してこそ、後で検証できるわけです。さらに、これからも自衛隊はどこか危険な場所にPKO(国連平和維持活動)で出ていくかもしれません。その際、過去に南スーダンやイラクに派遣されたとき、自衛隊はどんな状況に置かれ、その状況に対して、どう対応していたのか。以前の記録をもとに検証するということが大事になってくるのです。それが「既に破棄されています」、「記録がありません」、「どこかへ行ってしまいました」、あるいは都合が悪いところが改ざんされていたということになると教訓として生かされません。民主主義の根幹に関わることになります。
なぜ民主主義の根幹に関わるのか。それは、さまざまな情報を知ること、またその上で、政治に参加することが国民の権利でもあるからです。だからこそ、公文書の管理が国会で 大きな問題になっているのです。
公文書を残すことには、もう一つ大切な理由があります。政治家、あるいは官僚たちに、自分のすることへの歴史的な責任を自覚させる意義があるのです。
公文書でも国家機密に関することで、しばらくはオープンにできない情報もあるでしょう。しかし、そういう情報もいずれは公開されます。すると、かつて何が起こっていたのかがわかります。もしかすると、特定のある人によるとんでもない判断が今のある事態を引き起こしたという場合もあるかもしれません。それは記録が残っていればこそ検証できるわけです。
その判断をした人が、たとえ政治家を辞めたり、官僚を辞めていたり、あるいは亡くなっていたりしたとしても、記録が残っていれば、歴史にその名前が残ることになる。自分の名前が悪いかたちで歴史に刻まれるなんて、多くの人にとっては嫌なことで、そんな行いは避けるでしょう。
そういう歴史的な責任を感じる意識があれば、どう判断し、ふるまうかを考えて行動する動機が生まれることになるはずだよね。目先の出世のことを考えて、忖度して何かをしたところで、それが後になってわかるとなれば、それは人間として恥ずかしい。だから公文書を保存することが、行政に関わる人たちの判断を鈍らせることへの歯止めになり得るのです。
公文書の改ざんや廃棄が問題になっていますが、「情報公開法」や「公文書管理法」という法律が既にあります。行政は請求に対して公開の義務が取り決められていて、公文書の管理の仕方も法律になっています。けれど改めて公文書の管理を徹底する必要があります。保管の期限や公開までの期間などをさらに改良することで、行政に関わる人たちが歴史的責任を今以上に強く感じて取り組むようになれば、その仕事の質はおのずと高まるのではないでしょうか。
民主主義を支える「表現の自由」
情報公開法や公文書管理法は、「知る権利」と関わっています。日本の憲法では、「表現の自由」について以下のように定められています。
第二一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
○2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。(日本国憲法)
「知る権利」は、「表現の自由」があるからこそ成立すると考えられています。いろいろな情報が自由に表現されて、そこに公権力が介入しないからこそ、人はそのいろいろな情報を得て、さまざまなことを判断できると考えられているわけです。
しかし今、メディアも大きな権力になっているわりに、その責任を負っていないのではないかといった意見もあります。フェイクニュースなどといって、真偽が定かではないような情報も大量にメディアで紹介されるようになっていて、それに対する責任は誰が持ち、それを誰がチェックするのでしょうか。メディアにはそういった組織や仕組みがないという批判があるのです。
テレビであればBPO(放送倫理・番組向上機構)という組織があり、一定の成果を挙げているとも言えるのですが、新聞や出版に関しては、そういった組織はありません。だから無責任な報道があるのではないかという思いを持っている人もいるかもしれません。そういう思いからか、既存の新聞やテレビなどのメディアがインターネットで批判されるようにもなっています。
ただし、インターネットにもひどい情報がたくさんあり、その内容を新聞社がチェックする動きも出ています。相互にファクトチェックをすることで、情報の精度を高めていくしかありません。
ただ最終的にそれを審判するのは国民それぞれの役割です。誰かに任せきることはできません。「表現の自由」には「表現の自由」をもって対抗する。なぜなら、他者を傷つけたりする自由はありませんが、「表現の自由」を制限することは、他者の自由を奪うことになるからです。そして「表現の自由」が奪われれば、もの言えぬ雰囲気をもたらし、社会が萎縮してしまいます。
メディアは、資本主義のシステムの中では、売り上げ、あるいは利益という指標で評価されるしかない部分もあります。これまでも随分たくさんの雑誌や出版社がなくなりました。今も経営的に苦しい新聞や放送局があります。メディアは信頼を得ることで、経営的な基盤を成立させる努力をしていくしか、現時点では方法がないわけです。情報の重要性をはじめ、言論や報道の多様性が保障されてこそ民主主義が成り立つことを国民に訴える必要が、今後益々増していくことでしょう。
自由と権利を守るためには
こうして見てくると、憲法は私たちの生活にさまざまな面で関わっていることがわかります。だからこそ、メディアの問題で触れたように、「自由を認めてそれを維持するには、人任せではいけませんよ」といった考えが憲法の中に示されているのです。
第一二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。(日本国憲法)
この一二条では、憲法で保障されている自由と権利は、国民の絶えざる努力で保っていかないといけません。そして、自分の自由や権利をむやみに使ってはいけません。それぞれがそれぞれに認められている自由や権利を主張し過ぎると、互いにぶつかって争いが生じる場合もあるので、社会全体のためにその自由や権利を使う責任があります、ということが述べられています。
国会はじめ今の政治状況を見ていると、歯がゆかったり、ふがいなかったりと思う人もいるかもしれません。しかし、そう思わない人もいるかもしれません。君たちは、どうですか。
歯がゆかったり、ふがいなかったりするのは与党なのか、それとも野党なのか。はたまた内閣をはじめとした行政なのか。政治そのものか。どういうことを考えましたか。
この世の中には、さまざま違う考え方を持つ人が集まって暮らしています。それぞれの違う意見を言い合うだけでは、社会は成り立ちません。ですから政治には、多様な意見を調整してよりよい社会にしていくことが求められているのです。自分たちの自由や権利を保持するためにも、そういった政治状況を私たちがもっと要求していく必要があるとも言えるのです。
結果的に今の政権を選んでいるのは、私たちです。選挙で議員を選んでいるわけですから、私たちにも責任があります。おっと、君たちがまだ選挙権を持っていないのであれば、責任はありませんよ。でも、これから先、選挙権を持てば責任が生じます。
「選挙に行かないから関係ないよ」なんて、思っていませんか? 選挙に行かないということは、「今のままでもいいよ」ということを意味します。であれば、選挙で棄権しても責任はあるのです。
そこで考えなくてはいけないのは、民主主義というのは、極めて欠陥の多い政治制度だということです。それぞれの主張がぶつかる中で妥協に妥協を重ね、少しでも多くの人たちが納得できるよう調整しながら社会を運営していく仕組みが民主主義だからです。イギリスの元首相であるウィンストン・チャーチルの有名な言葉があります。
「民主主義というのは最悪の政治制度といえる。ただし、これまでに試みられてきたあらゆる制度を別にすれば」
なんとも皮肉な言い方ですね。民主主義は理想の仕組みではないけれど、他がもっとひどいから、相対的に民主主義でいくしかない。そして、みんなが納得できる仕組みなんてものもあり得ないのです。
民主主義における選挙制度とは、どういうものか。とりあえず選んだ人や党に絶対的権力を与えるわけです。期間限定の独裁政治を認めるシステムとも言えるわけです。
しかし、自分の投票した人が当選したり、投票した政党が政権を取ったりしたとしても、その仕事ぶりを見ていて駄目だとしたら、引っくり返すことができるのも民主主義なのです。次の選挙でその人や党に投票しなければいいわけですから。
たとえば、アメリカの大統領は絶大な力を持っています。ドナルド・トランプという候補者が何かしてくれるのではないかと多くのアメリカ国民が期待して、彼を大統領に選びました。しかし、選んでみて、もし期待違いであれば、次の選挙で代えてしまえばいい。それが可能なのが、民主主義の国ということです。
けれど独裁政権では、いくらとんでもないことをしている人間が国のトップにいても途中で引きずり降ろすことができないわけです。
この期間限定の権力を与える仕組みが民主主義の最低ルールでもあるのです。たとえば日本でも、民主党が選挙で勝って自民党から民主党に政権が交代することが決まったとき、当時は自民党の麻生太郎首相でしたが、麻生氏はすぐに首相を辞めました。そして民主党の鳩山由紀夫氏が首相になりました。私たちはこれが当たり前だと思っていますが、当たり前ではない国もあるのです。たとえばアフリカの国では、「選挙の結果を認めない」と主張して、大統領が二人存在するといった事態が起こったことがあります。民主的な選挙制度はあっても、政権交代を認めない。そんなこともあり得るのです。
選挙の結果に従って政権交代し、首相や大統領が代わる。世界の中でこういうことをきちんとできる国は、全体の半分にも満たないのです。この交代を可能にしている権利を有している私たちは、同時に責任も持っていることを意識して、不断の努力をしていかないとならないのです。
ちょっと格好良すぎることを言いましたかね? 民主主義や憲法を語るということは、決してダサいことではないんですよ。
教科書代は、なぜタダか?
私たちは普段、憲法の存在をあまり意識しないで暮らしています。しかし、実は私たちの日々の暮らしにたいへん密接に関わっているんですね。
たとえば、僕が小学校に入ったのは一九五〇年代です。当時、教科書はお金を出して買わなければいけませんでした。先に触れたように憲法第二六条2項で義務教育は無償としているのに、小学校、中学校の教科書を国民に買わせるというのはいかがなものかという議論が起こりました。その結果、教科書を無償化するという法律ができたんです。それが「義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律」です。
ある日僕が学校へ行くと、「今年から教科書は無料になりました。始業式の日に教科書を配ります」と言われました。突然教科書がタダでもらえるようになったのです。教科書が無償なのは今では当たり前かもしれませんが、これも憲法の考え方を大事にしましょうといって決まったことなんだ。
このいきさつについては、文部科学省のホームページに、法律の提案理由として以下のような説明があります。
「教育の目標は、わが国土と民族と文化に対する愛情をつちかい、高い人格と識見を身につけて、国際的にも信頼と敬愛をうけるような国民を育成することにあると思います。世の親に共通する願いも、意識すると否とにかかわらず、このような教育を通じて、わが子が健全に成長し、祖国の繁栄と人類の福祉に貢献してくれるようになることにあると思うのであります。この親の願いにこたえる最も身近な問題の一つとしてとりあげるところに、義務教育諸学校の教科書を無償とする意義があると信じます。
しかして義務教育諸学校の教科書は学校教育法の定めるところにより主要な教材としてその使用を義務づけられているものであります。(中略)
そこで、このたび政府は、義務教育諸学校の教科書は無償とするとの方針を確立し、これを宣明することによって、日本国憲法第26条に掲げる義務教育無償の理想に向かって具体的に一歩を進めようとするものであります。
このことは、同時に父兄負担の軽減として最も普遍的な効果をもち、しかも児童生徒が将来の日本をになう国民的自覚を深めることにも、大いに役立つものであると信じます。又このことはわが国の教育史上、画期的なものであって、まさに後世に誇り得る教育施策の一つであると断言してはばかりません」
随分と古風で格式ばっているけれど、「憲法の規定をようやく守れるようになりました」という誇りが滲み出ているでしょう。
憲法の条文は暮らしに関係する
また、私がとても好きな条文があります。これも私たちの生活と密接につながっています。
第二三条 学問の自由は、これを保障する。(日本国憲法)
語呂がとてもいいでしょ。なぜなら五七五だからなんだ。ここで保障されているように学問の自由があるからこそ、私たちは、どんな勉強をしても構わないし、義務教育を終えても、高校や大学、専門学校に進むことができ、さまざまな教育機関で学問を研究することができるのです。今では当然と思われているかもしれませんが、戦前は自由に学ぶことができない状況がありました。研究内容によっては、取り締まりの対象になり、特高(特別高等警察)と呼ばれる組織に逮捕され、思想弾圧を受けたのです。その反省に基づいて、憲法に「学問の自由」が謳われ、権力にそれを守らせようとしているのです。
あるいは年金制度です。日本には、私たちがいずれ年を取ると、国から年金がもらえる制度があります。制度がいつか破綻してしまい、年金をもらえないのではないかと心配している人もいるかもしれませんが、国は年金制度を継続し、具体的な運営方法を法律で決めています。なぜなら、この年金制度にも、憲法の考え方が大きく関わっているからです。
第二五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
○2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。(日本国憲法)
私たちは、最低限度の文化的な生活を送る権利があり、国はその権利を国民に保障しなければいけないのです。この憲法第二五条に規定されている考えから社会保障制度が整備され、年金制度や、病気になって医者にかかるとき、医療費を全て本人が負担しなくてもいいような医療保険制度ができたわけです。
さらに障害のある人には障害者年金があったり、働けなくなってしまった人やさまざまな理由で生活に困窮した人には、生活保護という仕組みがあったりします。一人の人間としてその尊厳を失うことのないぎりぎり最低限の生活が保障される制度が、憲法で規定されていることで、法律によって整えられているのです。
ただし、この「健康で文化的な最低限度の生活」の状況も、時代によって変わっています。かつて、まだ多くの人たちの家にエアコンがない頃には、生活保護を受給する人には、エアコンはぜいたくだといわれ、認められませんでした。ところが多くの人の家にエアコンが設置され、みんながエアコンを持つのが当たり前のようになってからは、生活保護を受ける人の家にも設置が認められるようになりました。
以前はテレビもぜいたく品だと言われて認められていなかったのですが、今では認められています。最近問題になっているのは自動車です。自動車は誰もが持っているというわけではありません。だから生活保護を受けている人が自動車を持つことは基本的にはできません。しかし、自動車がないと日常生活が困難な人もいますから、事情があれば認められるということになってきています。こうして一般の国民の生活レベルが上がることによって、「健康で文化的な最低限度の生活」の水準も変化してきているんですね。
働く上で知っておかなければいけない憲法と法律
憲法に定められていることで、私たち国民が働く上で大いに関係があるのが以下の条文です。
第二七条 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
○2 賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。
○3 児童は、これを酷使してはならない。(日本国憲法)
この二七条の1項については後で触れますが、2項と3項に関わるのが「労働基準法」です。その第三二条で週四〇時間、一日八時間を超えて働いてはならないと決められています。それ以上働かせる場合は、第三六条です。働いている人の代表と経営者が話し合いをして取り決めを結ぶことで、週四〇時間の労働時間を超えて残業させることができる例外規定があります。これを三六条からとって「三六(さぶろく)協定」と呼んでいます。原則は、そもそも残業してもさせてもいけないのです。残業が当たり前と思っている人もいるかもしれないけれど、本来は例外なんだ。君たちも、いずれ社会に出て働くことになるでしょう。労働者として、働く者として、きちんと知っておかなければいけないことです。
「労働基準法」には、第六章で「年少者」についての規定もあります。ここで一八歳未満の子どもたちを働かせる上での規則が定められています。
第五六条 使用者は、児童が満一五歳に達した日以後の最初の三月三一日が終了するまで、これを使用してはならない。
○2 前項の規定にかかわらず、別表第一第一号から第五号までに掲げる事業以外の事業に係る職業で、児童の健康及び福祉に有害でなく、かつ、その労働が軽易なものについては、行政官庁の許可を受けて、満一三歳以上の児童をその者の修学時間外に使用することができる。映画の製作又は演劇の事業については、満一三歳に満たない児童についても、同様とする。(労働基準法)
最初の表現はわかりにくいですが、要するに満一五歳に達した年度が終わるまでは働かせてはいけない、という規定です。
でも、これでは映画やテレビで子役を使うことができなくなります。そこで、2の項目が続くのです。では、その子役は何時までなら働けるのか。これも定められています。
第六一条 使用者は、満一八才に満たない者を午後一〇時から午前五時までの間において使用してはならない。ただし、交替制によつて使用する満一六才以上の男性については、この限りでない。
○2 厚生労働大臣は、必要であると認める場合においては、前項の時刻を、地域又は期間を限つて、午後一一時及び午前六時とすることができる。
○3 交替制によつて労働させる事業については、行政官庁の許可を受けて、第一項の規定にかかわらず午後一〇時三〇分まで労働させ、又は前項の規定にかかわらず午前五時三〇分から労働させることができる。
(中略)
○5 第一項及び第二項の時刻は、第五六条第二項の規定によつて使用する児童については、第一項の時刻は、午後八時及び午前五時とし、第二項の時刻は、午後九時及び午前六時とする。(労働基準法)
こうした規定があるので、テレビや映画の制作現場では、一三歳に満たない子どもに関しては、午後八時を過ぎて働かせることはできませんし、それ以上の年齢でも一八歳未満は午後一〇時を過ぎて働かせることはできないのです。僕が出演するテレビの番組でも、小学生が出演している場合は、午後八時には必ず番組の収録を終わらせるか、あるいは該当する子どもだけスタジオから出てもらうことになります。
憲法の規定があるから、子どもたちの労働条件が法律で守られているのです。
もう一つ、一人では弱い立場の労働者のために憲法では労働者が団結することを認めています。
第二八条 勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。(日本国憲法)
勤労者、つまり労働者が組合をつくって、会社と交渉する権利が保障されているということです。この二八条とかかわる法律として「労働組合法」があります。「賃金を上げろ」、「もっと休みを増やせ」など、さまざまな労働条件について経営者側と交渉することは憲法で認められているのです。
「その他の団体行動をする権利」の中には、たとえばストライキ権というのも含まれています。労働者側の要求が認められない場合、職場を放棄する、つまり働かないことがストライキです。労働者がストライキをした場合、働いていないわけですから、給料は出ません。労働者側も給料をカットされるという身を切るかたちになりますが、みんなが働かなければ、経営者は利益を得ることもできませんから困ります。労働者は自身の要求について経営者と交渉し、さらには交渉をするための団体をつくり、いざとなればその要求を認めさせるためのストライキをする権利が憲法で保障されているのです。
ただし、公務員については、ストライキ権は認められていません。公務員は国民全体の奉仕者だから、という考え方です。でも、それでは公務員の給料はいつまでも変わらないのか、という疑問が出るでしょう。そこで、公務員の給料は、民間の給料の動向を見て、それに準じて金額を決めるという仕組みがあります。
憲法が定める三つの義務の意味は?
「憲法にはよく国民の権利ばかり書いてある。義務が書いてない。けしからん」といったようなことを言う人がいる。そういう人は立憲主義を理解していないということです。私たち国民には権利がある。その権利を権力者はきちんと守りなさいと決めたものが立憲主義における憲法なのだから、国民の権利がたくさん書いてあるのは当たり前のことなのです。
それでも、私たちにも守るべき義務があります。三大義務と呼ばれるものです。さて、何だっただろう。覚えていますか? 小学校の社会科で習ったはずですが。大丈夫だよね。目が泳いでいないかな?
まず、先に触れた憲法第二六条2項にある「教育を受けさせる義務」だね。
わりと多くの人が勘違いしていて、義務教育とは、「子どもには学校へ行く義務がある」ということだと思っている。そうではないよね。「学校へ行きなさい。義務教育なんだから」と言う親がいるけど、これは違う。子どもには、二六条1項にあるように「教育を受ける権利」がある。義務を負っているのは保護者です。保護者は、その保護下にある子どもに教育を受けさせる義務があるわけです。
あと二つの義務のうち一つが先に触れた憲法第二七条1項で触れられている「勤労の義務」です。
そして、もう一つは、「納税の義務」です。これは憲法第三〇条です。
第三〇条 国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。(日本国憲法)
なぜこの三つだけを国民の義務としたのか。これらには大きな意味があって、この三つがなくなってしまうと国家を維持することができなくなってしまうからなんだ。
まず、教育があります。国は子どもが教育を受けられるような環境をつくります。保護者は義務として子どもに教育を受けさせる。子どもは大人になったとき、その教育を元にして、社会に出て働けるようになります。
実際に働くようになったら、その働きに応じた給料をもらう。給料がもらえたら、そこから国に税金を納めてもらい、国はそのお金で国の制度を維持することが可能になり、子どもに教育を受けてもらうための環境も継続できます。その結果、また次の世代の子どもに教育を受けさせることができるわけです。
こうしてぐるぐると循環させていくことで、国家が存続できるようになります。要は国家を維持するために、君たちも義務を果たして協力してくださいということなのです。国家を維持できなければ、国民に文化的な生活を保障するなんてこともできなくなるでしょう。だからこの三大義務については、国民もそれぞれ協力してくださいと、憲法で決められているわけです。
「裏口入学」で憲法改正
憲法改正を目指すと主張している安倍首相は、第二次安倍政権ができた当初、憲法九六条を変えるべきだと言っていました。この九六条は、憲法を改正する条件について定めたものです。
第九六条 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
○2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。(日本国憲法)
衆議院と参議院のそれぞれで三分の二以上の賛成で憲法改正を発議し、国民投票で過半数の賛成が得られると憲法改正が成立します。ずっと憲法を変えたいと考えてきた安倍首相ですが、衆議院と参議院の両方で三分の二の憲法改正勢力を確保するのが大変難しかったので、この九六条で規定されている条件を変えようと考えました。三分の一の反対で改正できないのはおかしい、両議院とも過半数の賛成でいいではないかと。衆議院と参議院の過半数で賛成を得られれば、憲法改正の発議をして、後は国民が国民投票で決める。最終的には国民が決めるわけだから、発議の要件を変更しようと考えました。それで安倍首相は、「九六条を変えるべきだ」と主張したわけです。
しかし、それを激しく批判した法学者たちがいました。中でも際だっていたのが慶應義塾大学の小林節教授(当時)。小林教授はその当時は、憲法九条を変えて、軍隊を持てるようにすべきだと主張する憲法改正論者でした。つまり安倍首相にしてみると、自分を応援してくれると思っていた人に批判されたわけです。小林教授は、九六条を変えて、憲法改正の発議をしやすくすることで、九条を変えようとしているんだろうと喝破しました。
小林教授は「憲法九条を変えたければ、堂々と国民に信を問えばいいのであって、憲法を変えやすくする九六条改正は『裏口入学』のようなものだ。憲法の破壊だ」と批判しました。
憲法にのっとって憲法九条を変えようと国民に呼びかけるのが、正規の入学試験を受けることであるならば、九六条の改正は、いわば入試の合格ラインを下げようとするものだろう、という批判だったのですね。
安倍首相にはこの批判が堪えたようで、その後、九六条改正を主張しなくなりました。
「忖度」を生み出す政治
では、安倍首相は、次に何をしたのか。憲法九条や個別的自衛権、集団的自衛権については、別の章で改めて細かく触れますが、ここでは最近の憲法とその改正をめぐる議論の流れを追っていきましょう。そこから憲法と三権分立の関係も見えてくるはずです。
安倍首相が次に何をしたかというと、集団的自衛権を認め、今の九条のもとでも集団的自衛権を行使することが可能だと、憲法の解釈を変える方法を採ったのです。解釈を変えることで、事実上憲法を改正したのと同じような効果を生み出す。これが「解釈改憲」といわれるものです。
ここで出てくるのが内閣法制局です。内閣法制局とは、「法の番人」といった呼ばれ方もする行政機関です。どういう仕事をしているかというと、内閣、要は行政がつくろうとする法律が憲法に違反していないかどうか、あるいは既に存在している法律と矛盾していないかをチェックしています。「番人」と呼ばれる所以ですね。
ちなみに衆議院にも参議院にもそれぞれ法制局があります。国会議員も新しい法律を提案することが当然できます。これを「議員立法」と言います。議員は必ずしも法律の専門家ではありません。ですから議員は、「こういう法律をつくりたい」と法制局にアドバイスを求め、衆議院と参議院の法制局は議員が法案をつくる手助けをしているのです。
これまでの内閣法制局による九条の解釈は、「個別的自衛権は認められているけれど、集団的自衛権は行使することはできない」というものでした。
ところが安倍首相は、内閣法制局の長官を差し替えるという手段に出ました。それまで内閣法制局の長官は、内閣法制局の次長から選ばれていました。つまり従来の長官は、役所の中の内部昇格だったのです。しかしこのとき、安倍首相は、「集団的自衛権を認めるべきだ」と主張しているフランス大使だった外務省の役人を内閣法制局長官に任命しました。こうして組織のトップである長官を差し替えることで、内閣法制局に従来の憲法解釈から変更して「集団的自衛権も憲法違反ではない」と認めさせたのです。
これが最近の政治の話題にもつながってきます。安倍首相は、役人たちが自分の言うことを聞かない場合は、自分の言うことを聞く役人に差し替えてしまう。もちろん任命権のある総理大臣であればできることですから、これ自体は問題ではありません。総理大臣というのは、当たり前ですが、大変強い力を持っているのです。
つまり、歴代の総理大臣も実行しようと思えばできた人事ですが、権力を抑制的に行使するという考え方をこれまでの首相は持っていました。その結果、役所の人事異動は、概ねそれぞれの役所の中で決められていました。
しかし安倍首相は、「できるのだからやろう」と、自分にとって都合のいいかたちで、内閣法制局の長官を替えてしまったわけです。さらに安倍首相は、内閣人事局という部局を整備して、官僚の人事権を掌握してしまったのです。各省庁のトップはそれぞれの大臣が務めますが、省庁の実際の業務をする公務員のトップは事務次官です。よく「事務方のトップ」と報道などで呼ばれる人です。この事務次官の人事権を内閣人事局が握っています。
これまでは、たとえば各省庁の中に局長という役職の人は何人かいて、次に誰が局長の上の事務次官になるかということはだいたいわかっていました。それが突然、内閣人事局、つまり安倍首相を中心にした内閣の意向で事務次官や局長を決められてしまう。そうすると、役所の中はこれまでの人事異動は通用しなくなりますから、人事を掌握している内閣の意向を過度に気にするようになってしまいました。それがよく問題になっている「官僚の忖度」を生む構造に結びついているのです。
「主権者」である国民がどう考えるか
しかし一方、ここで重要な問題があります。これまでのように官僚たちに自分たちの人事異動を任せておいていいのかということです。憲法には公務員について、こう定められています。
第一五条 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
○2 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
○3 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。
○4 すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。(日本国憲法)
1項には、「公務員を選び、辞めさせることは、国民固有の権利である」とあります。ですが官僚たちは、国家試験に受かって役所に入っている人たちであって、私たちが選んだわけではありません。その私たちが選んだわけではない官僚たちが、行政のいろいろな仕事をしているわけです。私たちの普段の生活は、行政の仕事に大きな影響を受けています。ですから本来であれば、選挙によって国民に選ばれた政治家がコントロールするのは当たり前と言えば当たり前のことなのです。内閣の職務権限を定めた憲法七三条の四号には、以下のようにあります。
第七三条 内閣は、他の一般行政事務の外、左の事務を行ふ。
一 法律を誠実に執行し、国務を総理すること。
二 外交関係を処理すること。
三 条約を締結すること。但し、事前に、時宜によつては事後に、国会の承認を経ることを必要とする。
四 法律の定める基準に従ひ、官吏に関する事務を掌理すること。
五 予算を作成して国会に提出すること。
六 この憲法及び法律の規定を実施するために、政令を制定すること。但し、政令には、特にその法律の委任がある場合を除いては、罰則を設けることができない。
七 大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を決定すること。(日本国憲法)
この四号にある「官吏」とは役人、つまり公務員のことで、「掌理」は、とりまとめること。だから「法律に従って、役人の仕事をとりまとめること」が、内閣の仕事の一つで あるのです。この「法律の定める基準」が、「国家公務員法」に定められています。つまり、安倍首相が公務員である官僚の人事を掌握することは特別に悪いことではなく、当然のことでもあるのです。
ですがその一方で、官僚たちの人事が公正でなくなった。あるいは政治の介入を受けたという思いが、官僚側にもある。国民に選ばれた政治家が官僚をコントロールするというのは本来あるべき姿であり、安倍首相は、それを実施したとも言える。しかしそこには、安倍首相の言うことを聞く役人を要職に持ってきたのではないかという疑いがある。そういうかたちで役人の人事に政治が介入したのではないか。果たしてそういうことをしていいのかという問題が起こっているのです。
これは本当に重要な問題で、君たちに考えてもらいたいのです。そのためにも憲法の前文を引きましょう。
(前略)ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。(日本国憲法)
どうあるべきかは、「主権者」である君たちが、それぞれ考えてほしいのです。
憲法に埋め込まれている三権分立
主権は国民にあり、その国民が選挙で代表者である議員を選び、その議員たちが議会で議論をして、議員の中から内閣総理大臣を選ぶ。総理大臣は、国務大臣を任命する。総理大臣と大臣で組織されるのが内閣で、内閣は行政、つまり国家公務員のトップです。そして、この行政のもとに官僚たちが存在しています。この官僚たちがいろいろなことを決めて行政を動かし、私たちの生活に影響を与えているのです。
しかし、私たちは官僚を選んでいるわけではありません。では、どうするか。選挙で選んだ国会議員を通じて官僚をコントロールするという、間接的な仕組みになっています。これが議会(立法)、内閣(行政)の関係です。
そして裁判所(司法)は、先に触れたように、憲法八一条に基づいて、法律などが憲法に違反していないかどうか審査する権限(違憲立法審査権)を持っています。ただ、裁判所の裁判官も私たちが直接選ぶことはできません。しかし裁判官によって私たちは裁かれる場合があります。ここでは国民の意思をどう反映させているのでしょうか。
まず、最高裁判所の裁判官の国民審査というシステムがあります。これは憲法第七九条で規定されています。
第七九条 最高裁判所は、その長たる裁判官及び法律の定める員数のその他の裁判官でこれを構成し、その長たる裁判官以外の裁判官は、内閣でこれを任命する。
○2 最高裁判所の裁判官の任命は、その任命後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際国民の審査に付し、その後十年を経過した後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際更に審査に付し、その後も同様とする。
○3 前項の場合において、投票者の多数が裁判官の罷免を可とするときは、その裁判官は、罷免される。
○4 審査に関する事項は、法律でこれを定める。
○5 最高裁判所の裁判官は、法律の定める年齢に達した時に退官する。
○6 最高裁判所の裁判官は、すべて定期に相当額の報酬を受ける。この報酬は、在任中、これを減額することができない。(日本国憲法)
この2項にあるとおり、この審査は単独では行われません。最高裁判所の裁判官になって最初の衆議院議員選挙のとき、そしてその後一〇年経った際に国民審査を受けるというものです。七九条の3項にあるように、もしその審査の投票で辞めさせるべきという投票が多数の場合、その裁判官は辞めさせられることになります。ただし、これまで二四回行われましたが、一度も罷免されたことはありません。
最高裁判所の裁判官は、この七九条の1項にあるように、内閣、つまり行政が選んで任命しています。それが正しいかどうかを、この国民審査による最高裁判所の裁判官のチェックで行っているわけです。それ以外の高等裁判所や地方裁判所の裁判官の人事は最高裁判所が握っています。厳密に言うと、最高裁判所が指名して、これを内閣が任命することに憲法第八〇条で決まっています。
第八〇条 下級裁判所の裁判官は、最高裁判所の指名した者の名簿によつて、内閣でこれを任命する。その裁判官は、任期を十年とし、再任されることができる。但し、法律の定める年齢に達した時には退官する。
○2 下級裁判所の裁判官は、すべて定期に相当額の報酬を受ける。この報酬は、在任中、これを減額することができない。(日本国憲法)
ここでも、国民が選挙で選んだ議員の中から議会で内閣総理大臣を選び、その総理大臣が選んだ内閣が、最高裁判所が人選した裁判官を任命する。そしてその最高裁判所の裁判官は内閣が選び、裁判官の審査は国民がする。複雑ですが互いにチェックしあっているわけです。ただ、裁判官の中に社会の常識から遠いような人がいることもあるかもしれない。実際に社会通念と比べるとあまりに変な判決が出ることもある。ものすごく国民の常識から離れた判決もあるわけです。それならば、もう少し私たちの声を反映させようといって、地方裁判所レベルだけれども、裁判員制度を導入して、国民が裁判に関わる仕組みもまた新たにつくられたということです。
なお、最高裁判所は、長官が一人、裁判官が一四人、合計一五人で構成されています。七九条の1項には「長たる裁判官以外の裁判官は、内閣でこれを任命する」とありますが、それでは「長たる裁判官」の長官はどういう決められ方をしているのでしょうか。これは六条2項に規定されています。
第六条 天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。
○2 天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。(日本国憲法)
この六条にも、国民が選挙で選んだ議員の中から議会で内閣総理大臣を選び、その総理大臣が選んだ内閣が、最高裁判所の長官を選ぶというかたちが示されています。これらは、いわゆる三権分立という考え方に基づいてかたちづくられています。それぞれの権力を分散して、チェックし合うという民主主義の大切なルールです。こうして見てみると、三権分立の考え方が憲法にはしっかりと埋め込まれていることがわかってくるのではないでしょうか。
なぜ公文書を残すことが大切
さきほどの、内閣法制局が憲法の集団的自衛権を容認することになった経緯でもう一つ大きな問題があります。内閣法制局の中でどのような議論があったのかという議事録=公文書を残していなかったのです。内閣法制局が突然これまでの態度を変えて集団的自衛権を容認するに至った過程がどういうものだったのか。それが今となっては検証できないわけです。
このような公文書の管理の問題はずっと続いています。森友学園への国有地払い下げ問題、加計学園の獣医学部新設に関わる問題、自衛隊の海外派遣時の日報問題と、公文書の管理にまつわる問題がとても多くなっています。これが「どうしてこんなに大きなニュースになるんだ」と思っている人がいるかもしれません。しかし、これは民主主義の根幹に関わってくる問題なのです。つまり、公務員が何かをした。どんなことをしたのか。果たしてそれは法律に基づいているのかどうなのか。後からいつでも私たちが検証できる公文書を残しておく仕組みになっていなくてはならないからです。
たとえば、自衛隊が南スーダンに派遣された。あるいはイラクに派遣された。そのとき自衛隊がどんな活動をして、周辺でどのような戦闘行為があったのか。自衛隊員はどういう活動をしていたのか。全員無事に帰ってきたけれど、本当は命の危険があったのではないか。記録をきちんと残してこそ、後で検証できるわけです。さらに、これからも自衛隊はどこか危険な場所にPKO(国連平和維持活動)で出ていくかもしれません。その際、過去に南スーダンやイラクに派遣されたとき、自衛隊はどんな状況に置かれ、その状況に対して、どう対応していたのか。以前の記録をもとに検証するということが大事になってくるのです。それが「既に破棄されています」、「記録がありません」、「どこかへ行ってしまいました」、あるいは都合が悪いところが改ざんされていたということになると教訓として生かされません。民主主義の根幹に関わることになります。
なぜ民主主義の根幹に関わるのか。それは、さまざまな情報を知ること、またその上で、政治に参加することが国民の権利でもあるからです。だからこそ、公文書の管理が国会で 大きな問題になっているのです。
公文書を残すことには、もう一つ大切な理由があります。政治家、あるいは官僚たちに、自分のすることへの歴史的な責任を自覚させる意義があるのです。
公文書でも国家機密に関することで、しばらくはオープンにできない情報もあるでしょう。しかし、そういう情報もいずれは公開されます。すると、かつて何が起こっていたのかがわかります。もしかすると、特定のある人によるとんでもない判断が今のある事態を引き起こしたという場合もあるかもしれません。それは記録が残っていればこそ検証できるわけです。
その判断をした人が、たとえ政治家を辞めたり、官僚を辞めていたり、あるいは亡くなっていたりしたとしても、記録が残っていれば、歴史にその名前が残ることになる。自分の名前が悪いかたちで歴史に刻まれるなんて、多くの人にとっては嫌なことで、そんな行いは避けるでしょう。
そういう歴史的な責任を感じる意識があれば、どう判断し、ふるまうかを考えて行動する動機が生まれることになるはずだよね。目先の出世のことを考えて、忖度して何かをしたところで、それが後になってわかるとなれば、それは人間として恥ずかしい。だから公文書を保存することが、行政に関わる人たちの判断を鈍らせることへの歯止めになり得るのです。
公文書の改ざんや廃棄が問題になっていますが、「情報公開法」や「公文書管理法」という法律が既にあります。行政は請求に対して公開の義務が取り決められていて、公文書の管理の仕方も法律になっています。けれど改めて公文書の管理を徹底する必要があります。保管の期限や公開までの期間などをさらに改良することで、行政に関わる人たちが歴史的責任を今以上に強く感じて取り組むようになれば、その仕事の質はおのずと高まるのではないでしょうか。
民主主義を支える「表現の自由」
情報公開法や公文書管理法は、「知る権利」と関わっています。日本の憲法では、「表現の自由」について以下のように定められています。
第二一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
○2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。(日本国憲法)
「知る権利」は、「表現の自由」があるからこそ成立すると考えられています。いろいろな情報が自由に表現されて、そこに公権力が介入しないからこそ、人はそのいろいろな情報を得て、さまざまなことを判断できると考えられているわけです。
しかし今、メディアも大きな権力になっているわりに、その責任を負っていないのではないかといった意見もあります。フェイクニュースなどといって、真偽が定かではないような情報も大量にメディアで紹介されるようになっていて、それに対する責任は誰が持ち、それを誰がチェックするのでしょうか。メディアにはそういった組織や仕組みがないという批判があるのです。
テレビであればBPO(放送倫理・番組向上機構)という組織があり、一定の成果を挙げているとも言えるのですが、新聞や出版に関しては、そういった組織はありません。だから無責任な報道があるのではないかという思いを持っている人もいるかもしれません。そういう思いからか、既存の新聞やテレビなどのメディアがインターネットで批判されるようにもなっています。
ただし、インターネットにもひどい情報がたくさんあり、その内容を新聞社がチェックする動きも出ています。相互にファクトチェックをすることで、情報の精度を高めていくしかありません。
ただ最終的にそれを審判するのは国民それぞれの役割です。誰かに任せきることはできません。「表現の自由」には「表現の自由」をもって対抗する。なぜなら、他者を傷つけたりする自由はありませんが、「表現の自由」を制限することは、他者の自由を奪うことになるからです。そして「表現の自由」が奪われれば、もの言えぬ雰囲気をもたらし、社会が萎縮してしまいます。
メディアは、資本主義のシステムの中では、売り上げ、あるいは利益という指標で評価されるしかない部分もあります。これまでも随分たくさんの雑誌や出版社がなくなりました。今も経営的に苦しい新聞や放送局があります。メディアは信頼を得ることで、経営的な基盤を成立させる努力をしていくしか、現時点では方法がないわけです。情報の重要性をはじめ、言論や報道の多様性が保障されてこそ民主主義が成り立つことを国民に訴える必要が、今後益々増していくことでしょう。
自由と権利を守るためには
こうして見てくると、憲法は私たちの生活にさまざまな面で関わっていることがわかります。だからこそ、メディアの問題で触れたように、「自由を認めてそれを維持するには、人任せではいけませんよ」といった考えが憲法の中に示されているのです。
第一二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。(日本国憲法)
この一二条では、憲法で保障されている自由と権利は、国民の絶えざる努力で保っていかないといけません。そして、自分の自由や権利をむやみに使ってはいけません。それぞれがそれぞれに認められている自由や権利を主張し過ぎると、互いにぶつかって争いが生じる場合もあるので、社会全体のためにその自由や権利を使う責任があります、ということが述べられています。
国会はじめ今の政治状況を見ていると、歯がゆかったり、ふがいなかったりと思う人もいるかもしれません。しかし、そう思わない人もいるかもしれません。君たちは、どうですか。
歯がゆかったり、ふがいなかったりするのは与党なのか、それとも野党なのか。はたまた内閣をはじめとした行政なのか。政治そのものか。どういうことを考えましたか。
この世の中には、さまざま違う考え方を持つ人が集まって暮らしています。それぞれの違う意見を言い合うだけでは、社会は成り立ちません。ですから政治には、多様な意見を調整してよりよい社会にしていくことが求められているのです。自分たちの自由や権利を保持するためにも、そういった政治状況を私たちがもっと要求していく必要があるとも言えるのです。
結果的に今の政権を選んでいるのは、私たちです。選挙で議員を選んでいるわけですから、私たちにも責任があります。おっと、君たちがまだ選挙権を持っていないのであれば、責任はありませんよ。でも、これから先、選挙権を持てば責任が生じます。
「選挙に行かないから関係ないよ」なんて、思っていませんか? 選挙に行かないということは、「今のままでもいいよ」ということを意味します。であれば、選挙で棄権しても責任はあるのです。
そこで考えなくてはいけないのは、民主主義というのは、極めて欠陥の多い政治制度だということです。それぞれの主張がぶつかる中で妥協に妥協を重ね、少しでも多くの人たちが納得できるよう調整しながら社会を運営していく仕組みが民主主義だからです。イギリスの元首相であるウィンストン・チャーチルの有名な言葉があります。
「民主主義というのは最悪の政治制度といえる。ただし、これまでに試みられてきたあらゆる制度を別にすれば」
なんとも皮肉な言い方ですね。民主主義は理想の仕組みではないけれど、他がもっとひどいから、相対的に民主主義でいくしかない。そして、みんなが納得できる仕組みなんてものもあり得ないのです。
民主主義における選挙制度とは、どういうものか。とりあえず選んだ人や党に絶対的権力を与えるわけです。期間限定の独裁政治を認めるシステムとも言えるわけです。
しかし、自分の投票した人が当選したり、投票した政党が政権を取ったりしたとしても、その仕事ぶりを見ていて駄目だとしたら、引っくり返すことができるのも民主主義なのです。次の選挙でその人や党に投票しなければいいわけですから。
たとえば、アメリカの大統領は絶大な力を持っています。ドナルド・トランプという候補者が何かしてくれるのではないかと多くのアメリカ国民が期待して、彼を大統領に選びました。しかし、選んでみて、もし期待違いであれば、次の選挙で代えてしまえばいい。それが可能なのが、民主主義の国ということです。
けれど独裁政権では、いくらとんでもないことをしている人間が国のトップにいても途中で引きずり降ろすことができないわけです。
この期間限定の権力を与える仕組みが民主主義の最低ルールでもあるのです。たとえば日本でも、民主党が選挙で勝って自民党から民主党に政権が交代することが決まったとき、当時は自民党の麻生太郎首相でしたが、麻生氏はすぐに首相を辞めました。そして民主党の鳩山由紀夫氏が首相になりました。私たちはこれが当たり前だと思っていますが、当たり前ではない国もあるのです。たとえばアフリカの国では、「選挙の結果を認めない」と主張して、大統領が二人存在するといった事態が起こったことがあります。民主的な選挙制度はあっても、政権交代を認めない。そんなこともあり得るのです。
選挙の結果に従って政権交代し、首相や大統領が代わる。世界の中でこういうことをきちんとできる国は、全体の半分にも満たないのです。この交代を可能にしている権利を有している私たちは、同時に責任も持っていることを意識して、不断の努力をしていかないとならないのです。
ちょっと格好良すぎることを言いましたかね? 民主主義や憲法を語るということは、決してダサいことではないんですよ。
〈第一章 了〉
書誌情報
- 定価
- 1540円(税込)
- ISBN
- 978-4-8342-5322-1
- 発行形態
- 書籍、電子書籍
- 判型
- 四六判
- ページ数
- 224ページ
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著者情報
池上 彰
1950年長野県生まれ。慶應義塾大学卒業後、73年にNHK入局。松江放送局、広島放送局呉通信部を経て、報道局社会部、警視庁、文部省、などを担当し、記者として経験を重ねる。94年から11年にわたり「週刊こどもニュース」のお父さん役として活躍。2005年にNHKを退職し、フリージャーナリストに。名城大学教授、東京工業大学特命教授、東京大学客員教授、愛知学院大学特任教授、立教大学客員教授。信州大学などでも講義を担当。『そうだったのか! 現代史』シリーズ、『君たちの日本国憲法』、『池上彰の世界の見方』シリーズ等、著書多数。